三遊亭圓輔師匠、93歳で逝去 生涯現役を貫いた江戸落語の「粋」
ニュース要約: 落語芸術協会に所属し、東都現役最高齢だった三代目三遊亭圓輔師匠が11月15日、心筋梗塞のため93歳でご逝去されました。1974年の真打昇進以来、半世紀以上にわたり生涯現役を貫き、90歳を超えても高座に立ち続けました。浅草育ちの「粋」と、特に廓噺で発揮された艶っぽい芸風は、多くのファンに惜しまれつつ、日本の伝統芸能史に大きな足跡を残しました。
訃報:江戸の粋を体現した孤高の落語家、三遊亭圓輔師逝く――93歳、生涯現役を貫いた大看板
【東京 2025年11月17日】
落語芸術協会に所属し、東都現役最高齢の落語家として活躍された三代目三遊亭圓輔(さんゆうてい えんすけ)師匠が、去る11月15日、心筋梗塞のため都内の病院でご逝去されました。享年93歳。訃報は本日公表され、長きにわたり寄席文化を支えてきた大看板の死に、落語界全体に深い悲しみが広がっています。
圓輔師匠は1932年(昭和7年)東京都練馬区に生まれ、浅草で育った生粋の江戸っ子です。本名、岡田基之。1958年に先代に入門し、1962年に二ツ目昇進とともに「圓輔」を襲名。1974年には真打に昇進されました。以降、半世紀以上にわたり高座に上がり続け、その独自の芸風で多くのファンを魅了し続けました。
93歳の最晩年まで高座に懸けた執念
圓輔師匠の最大の功績は、何と言ってもその「生涯現役」の姿勢にあります。90歳を超えてもなお、寄席定席の主任(トリ)を務めるなど、その精力的な活動は落語界の範となりました。
今年(2025年)8月に米丸師匠が亡くなられて以降、圓輔師匠は名実ともに東都の落語家の中で最高齢となり、その存在自体が日本の伝統芸能の歴史を体現しているかのようでした。
最晩年まで高座への情熱は衰えることなく、ご逝去のわずか5ヶ月前となる6月15日には、池袋演芸場にて寄席定席としては最後となる高座を務めておられます。この時の演目は、短い噺ながらも人情味あふれる滑稽噺の「長短」でした。この高座が、我々が拝見できる師匠の最後の「芸」となってしまったことは、返す返すも残念でなりません。
廓噺に懸けた「色気とユーモア」
圓輔師匠の芸風の最大の魅力は、その「艶っぽさ」にありました。浅草育ちの師匠が醸し出す、粋でいなせな雰囲気は、特に廓噺(くるわばなし)において真骨頂を発揮しました。
得意演目であった「三枚起請」「文違い」といった噺では、登場人物の機微や、そこはかとない色気、そして江戸っ子のユーモアを絶妙に織り交ぜ、観客を独特の世界観に引き込みました。その味わい深い語り口は「圓輔師匠でなければ出せない」と評され、伝統的な江戸落語の魅力を現代に伝える貴重な存在でした。
また、若い頃にはギターの流しを経験されているなど、多才な一面もお持ちでした。こうした異色のキャリアが、師匠の芸に深みと独自性を与えていたのかもしれません。
格式ある「三遊亭」の名跡を背負い
圓輔師匠が背負った「三遊亭」という名跡は、江戸落語の伝統と格式を象徴するものです。歴代の名人を輩出してきたこの一門の中で、師匠は伝統的な噺を忠実に継承しつつも、自身の個性を加味することで、落語の伝承と普及に大きく貢献されました。
師匠は、落語界の高齢化が進む中でも、若手落語家たちの模範であり続けました。長きにわたり高座に立ち続けたその姿勢は、技術的な継承のみならず、「芸道に終わりはない」という精神的な教えを次世代に伝えたと言えるでしょう。
突然の訃報に接し、多くのファンや関係者は驚きとともに、深い哀悼の念を抱いています。93歳という大往生ではありましたが、「もっと師匠の艶っぽい高座を聴きたかった」という惜しむ声は尽きません。
三代目三遊亭圓輔師匠が、日本の伝統芸能界に残した功績は計り知れません。江戸の粋を体現し、最期まで高座にこだわり続けた孤高の落語家に、心より哀悼の意を表し、安らかなご冥福をお祈り申し上げます。
(葬儀はご遺族の意向により、近親者のみで執り行われる予定とのことです。)