三谷幸喜×菅田将暉『もしがく』が問う「人生の楽屋」—1984年渋谷で描く役割と本音
ニュース要約: 三谷幸喜が25年ぶりに手がける連ドラ『もしがく』は、菅田将暉主演で1984年の渋谷を舞台に、劇団の人間模様を描く。理想と現実の狭間で暴走する久部(菅田)の姿を通し、「役割」と「本音」の葛藤、そして「人生の楽屋」はどこにあるのかという現代的な問いを投げかける。
三谷幸喜が問う「人生の楽屋」 菅田将暉主演『もしがく』が描く、現代社会の「役割」と「本音」
2025年11月26日
現在、フジテレビ系列の水曜22時枠で放送中の連続ドラマ『もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう』(通称「もしがく」)が、視聴者や批評家から熱い視線を集めている。三谷幸喜氏が25年ぶりに民放ゴールデン帯の連続ドラマ脚本を手がけ、主演に実力派俳優の菅田将暉を迎え、1984年の渋谷を舞台にした濃密な青春群像劇を展開している。
シェイクスピアの「すべての世界は舞台、人は皆役者に過ぎない」という名言をタイトルに掲げた本作は、単なる懐古的なドラマではない。演劇という特殊な世界を借りながら、現代社会に生きる我々が抱える「役割」と「本音」の葛藤を鋭く問いかけている。
1984年・渋谷、熱狂の渦中で
物語の舞台は、ジャズ喫茶やストリップ劇場が軒を連ねる1984年の渋谷・八分坂周辺。菅田将暉 ドラマとして注目を集める本作で、彼が演じるのは劇団「天上天下」の元演出家・久部三成だ。理想とするシェイクスピア劇の実現に執念を燃やす久部は、横暴な性格ゆえに劇団を追放されながらも、再び劇場を理想の場所にしようと奮闘する。
三谷氏の半自伝的要素が織り込まれたこの脚本は、当時の演劇界の熱気と、夢破れてもなお立ち上がろうとする若者たちの泥臭い人間ドラマを活写している。得田真裕氏による音楽とYOASOBIの主題歌「劇上」も相まって、混沌とした時代の空気を鮮やかに描き出している。
菅田将暉の「暴走」と共演者たちの化学反応
主演の菅田将暉は、久部三成という複雑な人物の内面的な葛藤を繊細かつ情熱的に表現し、その演技は「初期の難解さを乗り越えた後の熱演が光る」と高く評価されている。理想と現実の狭間で暴走し、苦悩する久部の姿は、ドラマの核として物語に深みを与えている。
そして、この「三谷ワールド」を支えるのが、盤石な共演陣だ。久部の恋人的存在であるダンサー・倖田リカを演じる二階堂ふみは、不器用ながらも久部と本気でぶつかり合う関係性を構築。第8話、第9話での急展開するロマンス描写は視聴者の胸を締め付け、「切ない」と大きな反響を呼んだ。二階堂は「久部とリカの関係は、お互いに不器用ながらも本気でぶつかり合っている」と語る通り、現場での演技のやり取りが自然な化学反応を生み出している。
また、劇場関係者トニー安藤役の市原隼人も、重要な役割を果たしている。市原隼人と菅田は15年ぶりの共演となるが、市原は菅田の演技を「泥臭く、リアルで、心を奪われた」と絶賛。市原演じるトニーが涙を流すシーンでは、二階堂ふみも「市原さんの演技に引き込まれた」と語るなど、実力派同士が互いの演技を高め合う姿は、まさに劇団のような一体感を生み出している。
「この世が舞台の楽屋はどこにあるのだろう」
本作のタイトルが持つ哲学的問いかけこそが、現代社会への最大のメッセージだ。もしもこの世が舞台の、楽屋はどこにあるのだろう――。
私たちは職場、家庭、そしてSNSという様々な「舞台」で、常に何らかの「役」を演じている。久部が理想の舞台を求めるように、現代人は「役割」を全うしようとパフォーマンスを強いられる一方で、その役割から解放され、本音を出せる「楽屋」を切望している。
三谷幸喜氏は、このドラマを通じて、人生は「役割」の連続かもしれないが、その役割に縛られすぎず、人間らしさや本質を大切にすることの重要性を伝えている。久部やリカ、トニーといった登場人物たちが、時に失敗し、時に人間らしく悩み、そして成長する姿は、「この世が舞台の楽屋はどこにあるのだろう」という問いに対する一つの答えを示しているのかもしれない。
豪華キャストと三谷脚本が織りなす熱狂的な人間ドラマ。放送終盤に向け、登場人物たちがそれぞれの人生の「楽屋」を見つけられるのかどうか、彼らの行く末から目が離せない。