絶対零度への挑戦:量子コンピューティングを加速する極低温技術のブレイクスルー
ニュース要約: 物理学の究極の限界である絶対零度(0K)は、量子技術の鍵を握る。記事は、絶対零度付近で支配的となる量子現象と、超伝導量子ビットを支える極低温冷却技術の最前線を紹介。ピコケルビン領域への挑戦や、量子コンピュータ実用化に向けた希釈冷凍機の開発が加速している。
【科学の深淵】「絶対零度」の壁に挑む:量子技術を駆動する極低温物理学の最前線
2025年11月23日 日本経済新聞/科学技術面
物理学が定義する温度の究極の下限、それが絶対零度(0ケルビン、摂氏マイナス273.15度)である。この温度では、物質を構成する分子や原子の熱運動エネルギーが理論上ゼロになる。しかし、この極限状態は単なる理論上の概念に留まらない。現代科学のフロンティアである量子コンピューティングや超伝導技術は、この絶対零度に近い極低温環境を舞台として、日々革新的な進展を遂げている。
熱力学第三法則の「深遠な壁」
絶対零度は、物質の熱運動が完全に停止した状態と定義されるが、熱力学第三法則によれば、有限の操作回数やエネルギーでこの温度に到達することは原理的に不可能とされている。これは、質量を持つ物体が光速に到達するために無限のエネルギーを必要とするのと同様に、物質を絶対零度に冷却するためには無限の仕事が必要となるためだ。
この「到達不能の極限温度」という深遠な壁こそが、物理学者たちの探求心を掻き立ててきた。絶対零度付近では、物質の古典的な振る舞いは消え去り、量子力学的な効果が支配的となる。例えば、量子力学の不確定性原理により、原子の振動は完全には止まらず「零点振動」と呼ばれる最低限の量子運動が残る。この極限環境をいかに作り出し、制御するかが、現代の物理学と工学の最重要課題となっている。
ピコケルビン領域への突入:冷却技術のブレイクスルー
近年、極低温技術の進歩は目覚ましく、絶対零度に限りなく近い温度の実現が可能になりつつある。現在、実験室レベルではナノケルビン(10億分の1K)の領域が日常となりつつあるが、2025年にはドイツの研究チームが、絶対零度に極めて近い38ピコケルビン(pK、1兆分の38K)という驚異的な超低温冷却の世界新記録を達成した。
この絶対零度への挑戦は、単なる記録更新ではない。この極低温環境が、超伝導や超流動、ボース=アインシュタイン凝縮といった、物質の根源的な性質を司る量子現象を詳細に観測するための不可欠な「舞台」を提供するからだ。
また、ミュンヘン大学では、熱力学的に負の絶対温度(絶対零度以下)の量子気体生成に成功するなど、これまで理論上の限界とされた温度の壁を超える新たな研究領域が開かれている。
量子コンピューティングを支える超伝導技術
極低温環境が最も切実に求められている分野の一つが、次世代の情報処理技術である量子コンピュータである。現在主流となっている超伝導量子ビットは、外部ノイズや熱によるエラーを最小限に抑えるため、数十ミリケルビン(mK)という極低温環境下でのみ安定的に機能する。
このため、量子コンピュータの実用化に向けては、高効率かつ大容量の冷却システムが不可欠だ。国内大手メーカーであるアルバックやIHIなどは、100万物理量子ビット級の量子コンピュータ実現を見据え、高効率な次世代希釈冷凍機の開発を急いでいる(2025年時点)。超伝導量子ビットの集積化が進む中、冷却能力の向上と小型化は、日本の量子技術戦略の鍵を握る。
さらに、超伝導は、特定の金属を絶対零度に近い温度まで冷却することで電気抵抗がゼロになる現象であり、エネルギー散逸のない超高速演算を可能にする単一磁束量子(SFQ)回路など、超高エネルギー効率の情報処理技術としても応用が進んでいる。
新物性探求と量子臨界点の解明
絶対零度付近で観測される量子現象の研究は、基礎物理学にも大きな進展をもたらしている。
理化学研究所などの研究チームは、極低温原子気体を用いた量子シミュレーションにより、これまで未解明だった磁性絶縁体の新奇な熱磁気輸送現象の観測に成功。また、物質が温度ゼロで量子的ゆらぎにより劇的に性質を変化させる「量子臨界現象」の解析では、結晶を回転させることで物性の異方性を評価する新しい指標「回転グリューナイゼン比」が提案され、基礎物性物理学の新たな地平を切り開いている。
これらの研究は、絶対零度近傍での量子もつれの振る舞いや、量子トポロジカル秩序といった、エキゾチックな物性の解明を通じて、将来的な量子材料や量子デバイスの機能開発に直結するものだ。
絶対零度は、到達不可能な理論上の極限温度であると同時に、現代科学が熱力学の限界を超えて量子力学的効果を最大限に利用するための「究極の実験場」となっている。この極低温のフロンティアにおける研究と技術開発こそが、21世紀の科学技術の未来を形作る鍵となるだろう。