明治の「決闘罪」が令和に蘇る―歌舞伎町トー横事件から読み解く若者文化の闇
ニュース要約: 新宿・歌舞伎町の「トー横」で起きた死亡事件に、明治時代制定の「決闘罪」が適用される異例の展開となりました。26歳の男が初対面の男性と「タイマン」に合意し暴行を加えたとされる本事件。背景には現代の若者が抱える居場所のなさや、暴力をコンテンツ化するSNS文化の影響が指摘されており、130年前の法律が令和の社会問題に警鐘を鳴らしています。
明治期の古法が現代に蘇る―浅利風月容疑者の「決闘罪」適用が問いかける若者文化の闇
新宿・歌舞伎町で起きた死亡事件に、130年以上前の法律が適用された背景を追う
決闘罪適用という異例の展開
2025年9月23日午前4時頃、東京・新宿区歌舞伎町のいわゆる「トー横広場」付近で、衝撃的な事件が発生した。千葉県八千代市在住の無職・浅利風月容疑者(26)が、初対面の松田直也さん(当時30)と口論になった末、約10分間にわたり殴る、蹴る、地面に叩きつけるなどの暴行を加え、数日後に松田さんを死亡させたとされる事件だ。
この事件で警視庁が適用したのは、傷害致死罪に加えて「決闘罪ニ関スル件」という、明治22年(1889年)に制定された特別法だった。現行法としては最古級に属するこの法律が、令和の時代に再び注目を集めることになったのである。
決闘罪の適用は極めて異例だ。法曹関係者によれば、近年では2019年に高校生がSNSで「タイマン」を約束し殴り合った事例など、ごく少数の適用例しか確認されていない。なぜ今回、130年以上前の法律が持ち出されたのか。そこには現代の若者文化が抱える深刻な問題が横たわっている。
「合意のある暴力」という落とし穴
決闘罪が一般的な傷害罪と決定的に異なるのは、当事者双方が暴力による争いに合意していること自体を犯罪とする点にある。通常の傷害事件では加害者と被害者が明確に分かれるが、決闘罪では「互いに殴り合うことを約束した」という行為そのものが違法とされる。
警視庁の捜査関係者によれば、今回の事件では浅利容疑者と松田さんが口論の末、その場で「タイマンを張ろう」という形で1対1の殴り合いに合意したと認定された。周囲にいた人物らもこの「決闘」を認識していたとされ、約10分間という比較的長時間の暴行が展開されたという。
実際には浅利容疑者による一方的な暴行に近い状況だったとの報道もあるが、重要なのは事前に「互いに殴り合う」という合意があったと判断された点だ。この合意の存在により、単なる喧嘩や一方的暴行ではなく、法的には「決闘」として扱われることになった。
浅利容疑者は取り調べに対し、容疑を認めた上で「相手が亡くなったことは大変申し訳なく思っている」と供述しているものの、口論のきっかけについては「覚えていない」と述べているという。
トー横という舞台が持つ意味
事件の舞台となった「トー横」は、新宿・歌舞伎町の東宝ビル横のエリアを指す通称で、近年、家出少年や居場所のない若者たちが集まる場所として知られている。深夜でも多くの若者が路上に座り込み、酒を飲んだり将棋を指したりしながら時間を過ごす光景が日常化している。
報道によれば、浅利容疑者と松田さんも、当初は一緒に将棋を指すなど穏やかな時間を過ごしていたという。初対面同士が緩やかに繋がり、そして些細なきっかけで暴力へとエスカレートしていく――トー横という空間には、そうした危うさが常に潜んでいる。
社会学者の間では、トー横のような場所を「承認の空白地帯」と呼ぶ声もある。家庭や学校、職場といった既存のコミュニティで居場所を見出せない若者たちが、路上という匿名性の高い空間で一時的な繋がりを求める。しかしそこでの人間関係は極めて脆く、ちょっとした言葉の行き違いが致命的な衝突を引き起こしかねない。
「見せる暴力」という新たな様相
現代の決闘的暴力が過去の不良文化におけるタイマンと決定的に異なるのは、SNSや動画配信を通じて「見せる」要素が加わっている点だろう。今回の事件で動画配信の関与があったかは明らかになっていないが、類似の事件では暴行の様子が撮影され、SNSで拡散されるケースが後を絶たない。
2019年に決闘罪が適用された高校生の事件でも、SNS上で「タイマン」の約束がなされ、その様子が動画として記録されていた。暴力は単なる力の行使ではなく、「コンテンツ」として消費される対象となっているのだ。
文化人類学者の指摘によれば、ヒップホップ文化におけるMCバトルや格闘技、eスポーツなど、現代社会には様々な形の「決闘的」な競争が制度化されている。これらは本来、リアルな暴力の代替として機能するはずだった。しかし皮肉なことに、「バトル」や「対決」というフォーマット自体が若者文化に深く浸透した結果、それが再びリアルな暴力と結びつく逆説的な現象が生じているのかもしれない。
同調圧力と「ルール付きの逸脱」
バブル崩壊以降、日本社会では「ナンバーワンよりオンリーワン」という価値観が広まった。しかしその結果、競争を避け、目立つことを嫌い、横並びから外れないことを重視する同調圧力がかえって強まったとの指摘もある。
若者文化研究者によれば、現代の若者たちは強い空虚感や厭世観を抱えながらも、それを表現する適切な回路を持たない。SNSでは「キャラクター」を演じることが求められ、本音を出せる場所が限られている。
そうした中で、「決闘」という形式は奇妙な魅力を持つ。ルールが明確で、勝敗がはっきりし、一対一という公平性がある。同調圧力に縛られた日常からの「ルール付きの逸脱」として、暴力的な決闘が一部の若者にとって魅力的な選択肢に映ってしまう可能性がある。
法の抑止力は機能するか
決闘罪は、決闘を申し込んだ者、受けた者、実際に行った者、立会人、場所を提供した者まで幅広く処罰対象とする構造を持つ。明治期の立法者たちは、私的な暴力による決着を社会から根絶するため、包括的な処罰体系を構築したのだ。
今回の決闘罪適用について、警察関係者は「合意して暴力で決着をつけようとする行為自体を違法化することで、若年層の『タイマン文化』への警鐘になる」と説明する。通常の傷害罪よりも強いメッセージ性を持たせることで、抑止効果を狙っているのだ。
しかし法律の適用だけで問題が解決するわけではない。トー横に集まる若者たちが抱える孤独や承認欲求、居場所のなさといった根本的な問題にどう向き合うか。SNSやデジタル空間と現実の暴力がどう接続されているのか。そうした複合的な視点からの対策が求められている。
おわりに
明治の法律が平成を経て令和に蘇ったという事実は、ある種の歴史の皮肉を感じさせる。130年前の立法者たちが想定したのは、旧士族らによる名誉を賭けた果たし合いだった。しかし今、同じ法律が適用されているのは、深夜の歓楽街で初対面の者同士が些細な口論から「タイマン」に発展するケースだ。
時代は変われど、暴力で決着をつけようとする人間の衝動は消えていない。しかしその形態や背景は大きく変化している。浅利風月容疑者の事件は、現代日本の若者文化が抱える闇の一端を露呈させた。この事件を単なる個別の刑事事件として処理するのではなく、私たちの社会が若者たちにどのような居場所と表現の回路を提供できているのか、改めて問い直す契機とすべきだろう。
松田直也さんのご冥福を心からお祈りする。そして二度とこのような悲劇が繰り返されないことを願ってやまない。
(記事終わり・全文約2,400字)