八田與一の遺産「嘉南大圳」100年：極限気候に挑む日台の挑戦

台湾を潤した日本人技師の遺産：八田與一と「嘉南大圳」の100年—極限気候に挑む現代の挑戦

【台北発 2025年11月30日 記者：佐藤 健】

台湾南部の広大な嘉南平原。この地を台湾最大の穀倉地帯へと変貌させた巨大水利インフラ「嘉南大圳（かなんたいしゅう）」は、2025年現在もなお、地域の食料安全保障を支える大動脈として機能し続けている。この世紀の事業を設計・指揮したのが、日本人土木技師、八田與一（はった よいち、1886-1942）である。彼の没後80年を超えても、その功績と理念は台湾社会に深く根付いているが、築100年を迎える巨大インフラは、老朽化と極端気候という新たな試練に直面している。

世紀のプロジェクト、台湾農業の基盤を確立

八田與一が台湾総督府の技師として設計した嘉南大圳は、1920年（大正9年）に着工し、10年の歳月を経て1930年（昭和5年）に完成した。主要施設である烏山頭ダムは、当時アジア最大級のダムであり、その土木技術は画期的であったとされる。特に、ダム建設に用いられたセミ・ハイドロリックフィル工法（半水成式工法）は、当時の技術水準を大きく凌駕していた。

完成以前、嘉南平原は天候に左右される「看天田（てんてんでん）」と呼ばれる不安定な農地が広がり、旱魃（かんばつ）や排水不良に長年苦しめられてきた。八田技師は、烏山頭ダムと総延長1万6000kmにも及ぶ緻密な水路網を構築することで、香川県とほぼ同面積にあたる約15万ヘクタールの農地に安定的な灌漑水を供給可能とした。これにより、米やサトウキビの生産量は飛躍的に増加し、台湾経済の根幹となる現代農業の基礎が確立された。

台湾では、八田與一は単なる技術者ではなく、「嘉南大圳の父」「台湾人の守護神」として深く敬愛されている。彼の墓所と銅像が残る烏山頭ダム周辺には、毎年命日（5月8日）を中心に多くの人々が訪れ、その功績を偲んでいる。これは、国境や政治を超えた、技術者への純粋な敬意の表れとして、現在も日台友好の精神的象徴となっている。

持続可能性を見据えた「三年輪作給水法」

八田技師の偉業は、インフラの巨大さのみにあるのではない。彼の哲学は、水の公平な配分と持続可能な利用にこそ見られる。

彼は、限られた水資源を最大限に活用するため、「三年輪作給水法」を導入した。これは、農地を三区に分け、米、サトウキビ、その他の作物というローテーションで作付けし、時期に応じて水を供給するシステムである。これにより、特定地域への水の偏りを防ぎ、土地の疲弊を防ぎつつ、農業生産の安定性と公平性を確保した。この先見の明は、現代の持続可能な開発目標（SDGs）にも通じるものであり、100年後の子孫のために優れた環境を残すという八田技師の誓願が、今も生き続けている。

極端気候と老朽化、直面する現代の課題

しかしながら、八田與一の残した偉大な遺産は、現代において重大な挑戦に晒されている。

施設が築100年近くを経過する中で、堤防、水門、導水路といった広範なインフラの老朽化が深刻な課題となっている。台湾当局は、耐震補強や施設の改修を継続的に実施しているが、総延長1万6000kmに及ぶ水路網の維持管理には膨大な時間とコストが必要だ。

さらに深刻なのが、地球規模での気候変動の影響である。近年、台湾は長期にわたる干ばつと、記録的な豪雨が交互に襲う極端な気象パターンに見舞われている。嘉南大圳の水路システムは、水の有効利用と排水管理の両面で地域の災害リスク軽減に貢献しているものの、予測不能な気候変動に対応し、15万ヘクタールの農地への安定供給を維持するためには、最新鋭のデジタル技術を用いた水管理システムの導入と、継続的な技術更新が不可欠となっている。

政治を超えた「人道エンジニア」の評価

八田與一の功績は、台湾社会における歴史認識の複雑な文脈においても議論の的となることがある。一部には、彼の功績を植民地統治の文脈で評価すべきだとする声もある。しかし、2017年の銅像破壊事件など、歴史的な評価を巡る対立が表面化する一方で、台湾社会の主流な評価は、八田技師を「人道的なエンジニア」として捉えている。

2021年の嘉南大圳着工100周年記念式典では、蔡英文総統が八田技師の功績を改めて称賛し、「100年後の台湾の農民に、灌漑の水があるように」という彼の理念が現代に受け継がれていることを強調した。

八田與一が台湾に残したものは、単なる土木構造物ではない。それは、技術と人間愛に基づいた持続可能な社会への青写真であり、現代においても台湾の食料供給と環境保全を支え続ける「生きた遺産」である。日本と台湾は、この歴史的な遺産を未来に継承するため、技術協力と精神的交流を深めることが求められている。